倉敷の歴史と私の目指す夢
フジワラファームの目指す夢
倉敷の大半は江戸時代から始められた干拓によって出来た町です。
私の先祖が320年前児島からこの地に移り住んで干拓開発に汗したのが当家の始まりです。当時は塩抜き排水作業でとても辛い作業の日々だったと思います。
江戸時代後期になってようやく塩田後地の様な土地で綿が出来ることを探り当て、後に倉敷を変える基幹作物となったのです。当時にしてみれば金鉱脈を当てた心持だったかもしれません。
明治維新と同時に綿の需要が高まり紡績業が盛んとなり運河沿いに倉庫としての蔵が建ち並んだ風情を見て地名が倉敷となったそうです。現在では綿花の栽培はありませんが生地を加工してジーンズ発祥の地として数々のブランドを生み出しています。
倉敷を代表する建物に工場を人が集うホテルに改造されたアイビースクエァー、文化の向上を求めて名画を集められた大原美術館、女工さんの救護施設として建てられた倉敷中央病院など当時の繁栄ぶりをうかがうことが出来ます。
ファームの歴史
農地は先祖から預かった土地を末永く守り繁栄させて行くことと思っています。汗した土地の重みを就農してみて実感しています。祖父、父の時代は終戦後のコメの増産に日本中が沸き上がった時代でした。コメ余りの時代を迎えた昭和58年春就農への決断をしました。食も洋風化の波が押し寄せており大学時代に触れた洋野菜しか無いと思って若さ故の想いから歴代の先人がイノベーションを起こした様に新しき流れを起こしたかったです。
しかし、、東京で販売を試みましたが、そんなに生易しい物のではありませんでした。
当時、紀ノ国屋の社長さんとの絆が出来色々ご指導を賜っている最中、バブルの始まりと共に一気にメディアに取り上げられ飽食の仕掛け人として名声だけ業界に認知していただく機会を得ましたが、大きな成果を生み出すことはできませんでした。今後は業務需要と並行して野菜のテーマパークを地元に作り野菜文化の向上に努めていきたいです。
干拓地を救った鬼伝説
干拓を進めて陸地となった土地は排水も悪く塩水を逃がそうとしても当時の技術や機械では現代の様なわけにはいかず不良環境の中で脱塩作業が繰り返されていたと思います。
入植者も過酷な労働を重ねてこられたと思います。日々不良環境下で災厄が降りかかることが最も怖かった時代、民衆を救ったのが桃太郎伝説となった温羅で鬼が退治され首をはねられても泣き止まないので問いただすと手厚く祀ってくれそうすれば民の幸せを願ってやると最後に言ったのが民間信仰として受け継がれ、最強の鬼が家に来れば全ての災厄を取り去ってくれると信じられ地域の若者が鬼に扮し家々を清めていったのです。
男鹿の「なまはげ」、石垣島の「としどん」と同様新年に向けて福が来る様に願ったのものです。
青年団を立ち上げ25年途絶えていた鬼の復活を果たし現在も引き継がれ市の行事にも参加し喜ばれています。
温羅伝説の戦いの名残を示す名所旧跡が現在も整備され残っているのでサイクリングなどで回って見られると歴史を感じてもらえると思います。
戦いの居城となったのが鬼の城と吉備津神社
首を祀ったお釜殿
他にも古墳群や戦いの様子を示す旧跡
続きは来てのお楽しみ!
私の目指す夢
私が小学生の頃、野人のごとく野山を駆け回ってあらゆる野草を摘まんで口にしていたのが、大学の入学と同時にフェンネルとの出会いで目覚め人生の転機となりました。洋野菜のとりことなった私はイタリア野菜への想いが捨てきれず公務員の職を捨て野菜農家へ転身、バブルの始まりで時期が良く名声だけは瞬く間に広まりました。
順調とは言えない経営を何とか安定させたい一心で当時貴重品として輸入されていたアスパラソバージュ探しに出かけたのです。
ヨーロッパの栽培視察など兼ねて4か国を3か月ほどかけて見て回りました。
ソバージュに関してはフランスの方も知らない人が多く苦心しましたが、不思議な縁で探し当てることが出来ました。
帰国後野菜作りに励みましたが、バブルの崩壊リーマンショックと難しい時代を何とか潜り抜け現在に至っております。もう一度フランスに出かける機会を頂けるならフランス人シェフ、ミッシェルブラス氏にお会いして野菜を前面に押し出した料理でフランスはもとより世界のグルメをとりこにし、町の衰退を繁栄に導いたエネルギーを感じてみたいです。
私も野菜バカの人生を送ってきた集大成として野菜のテーマパークレストランを作り野菜に関する情報発信はもとより地元の食材、地元に根ずいた民芸雑器をふんだんに使って美味しく食べて美と健康を地元の皆さんと共有し、今まで支えて戴いた恩返しをしたいです。
子供じみているかもしれませんがいつまでも夢を追い続け前に向かって進みたいです。
今後とも皆さんのご協力ご支援をよろしくお願いします。